『出会って4光年で合体』

https://www.dmm.co.jp/dc/doujin/-/detail/=/cid=d_278002/

 

について。

f:id:namas_19:20230804180409j:image

 

ということだな。

 

・魔法のかかった作品。初期の『かぐや様は告らせたい』が一番体感としては近い。美少女を描く「技法」は知らないが、「美少女とは何なのか」(ルビ振りたい)に限りなく接近した人間が、人生でその時だけ描ける世界。

・あるいは技法の無さによる何か不安定な揺らぎのようなものも、美少女に必要なのかもしれない。朝で額に張り付いた髪の毛、みたいなノイズが。

・インターネットの特異点の魔法、としては『オナマス』も想起したい所。テーマとして、ここでしか生まれない作品ではある。ただ上記2つと比べると、オナマスは「完成しすぎている」なとも。

 

・ひとつの達成は「美少女」の手の届かない美しさを保ったまま、セックスをさせることに成功した点ではないか。

・行為が始まっても「はわわわわ、かわいい〜」「こんな子と、こんなことしていいの?! ダメやろ!!」と思って読んでいた。

・つまり、性行為に至るというのはこう、人間としてお互いを受容しあうという意味で、何か対等さみたいなものを帯びるのではないかと。

・あるいはもっと品がないことを言えば、フィクションコンテンツ、例えばエロゲにおいては「このヒロインを獲得した」ことの象徴としての性行為のシーンになっていることも多々あるはず。

・だから性行為はそれまで高嶺にいたヒロインが、自分のところに降りてきてくれる、美少女をやめて人間になるようなものだとも思うのだけど。

・どこまで行っても彼女は「花」であったように自分は読んだ。

・…いやどうなんだろ? 花を使った演出は本作の特に前半に見られる個性なことはまちがいなく。それが宇宙空間=つまり、花が咲かないところに行くというのが、彼女もまた「俺と同じ人間」に降りてきた、ということでもあるのか?

・ただ少なくとも自分の中では、ずっと美少女やなと思っていた。この場合の美少女はかなり狭義の、手が届きようのない、人生で一瞬だけ出会う美しい何かを指しているということを今更ながらに書いておく。

 

・これと真逆のことをやったのが『かぐや様』の初夜会で、あれをもって決定的に四宮かぐやは人間として描かれるものになったと思う。美少女の座を降りた、あれもまた美しい選択だった。

 

・美少女であることは誰にも捕まらないことではないか、という気もする。常にどこかに消えていきそうな感覚を帯びた、理解しきれない存在。

・エロ漫画だからこそ、この美少女性を保ち切ることができたというのもあるかもしれない。心の距離を縮める描写、クライマックスを言葉を発さない性行為に委ねられるからこそ、彼女はどこか余白を残し続けている。

・意図的かはともかく、この物語が「美少女を、ただ描く」ことはエロ漫画というフォーマットだからこそ生みうる到達だったかもしれない。

 

ほか、ストーリーの組み立ての王道感や自然風景の描写が素晴らしいのはいうまでもなく。豪雨のシーンは圧巻。

「攻略法を使わないでゲームをクリアする」ことが何を示すのかは考える余地がありそう。

などなど。

この作品自体がずっと掴みきれない、なんだかごく稀にみる「超面白い映画みたいな夢」をそのまま見せられたようだなあ。

 

ではまた。