潜水

2020年10月24日、舞台『人類史』(作・演出 谷賢一)をKAAT神奈川芸術劇場で観た。またそれに引っ張られ、長らく積読エリアに根を生やしていた『神は数学者か?』(マリオ・リヴィオ)も手に取ったが、副読本としてぴったり。やったぁ。それを踏まえ以下、『人類史』の感想を内容に触れながら書いていく。

 

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『人類史』はユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー『サピエンス全史』を土台に、「"人類という種族"を物語の主人公に立てた」舞台劇。サピエンス全史では人類の歴史における三つのビッグイベントを指摘している。今から7万年前の認知革命・1万年前の農業革命・400年前の科学革命だ。*1

『人類史』で秀逸だと思ったのは、このうち認知革命と科学革命との連関を作中で示唆したことだ。原典ではそれぞれの革命が独立したものとして記述される感があるが、*2本劇第二幕のガリレオ・ガリレイを取り巻く物語を見ていると、この二者が振り子の両極のような関係にあることが見えてくる。

 

認知革命とは、人類による抽象的な言語・概念を理解する能力の習得である。はじめ、言葉は目の前の世界を表すためのものだった。敵、石、花、朝、あなた、私。言語を通じて私たちは、はじめて私たちが同じ世界を見ていることに、相互に確証が持てたのかもしれない。眼前の世界への共通認識を高めることが、小さな共同体を強固なものにした。

しかし認知革命が起こることで、言語あるいは私たちの捉える概念は一変する。国家、神、あるいはカネ、株式。目に見えない概念を理解し、言語化し、それを基にコミュニケーションし、それまでとは桁違いの規模の共同体を築くことが可能になる。ハラリはこの進化が、人類が地球上の支配的な生物となる重大な要因であったと指摘する。換言すれば人類は虚構、物語を信じる能力によって繁栄した。

上でも触れたが、物語の代表的な例のひとつは宗教だろう。400年前、科学革命が芽吹く欧州では、キリスト教が最強の物語だった。

 

* 

……というのが『人類史』第一幕〜第二幕「科学革命」冒頭までの筋書きで、ここからが本題。第二幕ではガリレオ・ガリレイら科学者とキリスト教信者がお馴染みの「地動説 vs 天動説」の問答を繰り広げる。ガリレオは言う。

「知ることは、見ようとすることから始まる」

盲信されている神の物語ではなく、自分の目で見る木製の惑星から、太陽の黒点から、月の形から、宇宙の本当の姿を読み解け。理知的かつ力強い、脚本としても盛り上がりどころの発言だが、第一幕を踏まえると尚更面白い。ガリレオが提示するのは、虚構を脱し、肉眼で世界を見つめること。すなわち認知革命のギフトを(部分的に)放棄することで達成されたのが、科学革命であると言える。

 

それは決して物語・虚構を否定するという話ではない。余談になるが地動説の講義を聞き打ちのめされるキリスト教信者にかけられる言葉がまた良かった。

「天体の動きは数学という文字で、宇宙に書き込まれている。しかし天国への行き方は、やはり聖書にしか、書かれていないのではありませんか。」

 

そもそもガリレオ・ガリレイだって認知革命の恩恵にどっぷりだ。彼は元々は純粋数学の研究者である。また数学研究(或いはあらゆる科学研究、もっと言えばあらゆる研究か)は過去の研究者が発見した体系や公理を前提に行われる。他人の考案したそれらはまさに、認知革命がなければ理解し得ない、目に見えない抽象概念ではないか。じっさい、ガリレオの研究もユークリッド幾何学という「物語」を信奉した結果、その土台ごと揺るがす「非ユークリッド幾何学」の登場で多少なりの打撃をくらっている。

なにより、ガリレオの証明した地動説もまた、今日では一つの物語として私たちに膾炙している。私は木製の惑星も、太陽の黒点も、月の凸凹も、肉眼で見たことはない(見りゃいいんだけど。見たいし)。それでも地球は回っている、と私も思う。

 

つまるところ人類は、「目で見る」こと(認知革命の恩恵OFF)と、抽象化した知識を交換すること(認知革命の恩恵ON)を振り子のように行ったり来たりして知識を発展してきた、というイメージが見えてくる。物語を脱し、観察によって発見された地動説が、再び物語になる。いつかその物語を脱したところで、誰かが何かを「見る」のかもしれない。

科学的手法としてはあまりに自明な話かもしれないが、改めてこれを個人に適用するとどうだろう。『人類史』という舞台は、一般に個人が担ぐ「主人公」の看板を人類という種に預けた点に面白みがあった。それをまた、一人の人間の卑近な話に落としてみる。

私たちは無数の物語を受け入れて生きている。新型コロナウィルスだって、私の目の前では何も起きていないんだから、全部虚構でしたと言われても納得してしまうかもしれない。一方で確かに言えるのは、人類という種の長い歴史で「見る」ことのできる対象はほぼ無制限でも、*3一人のそれには間違いなく限界があるということだ。個人で考えると、振り子の例えは不適切だったかもしれない。「ON」側と「OFF」側を均等に往復するような仕掛けではないだろう。普段は海上(ON)にいて、頑張って潜水して海底に手を伸ばしてみる(OFF)くらいの関係性かも。ガリレオは深海で地動説を見つけた。

つまり問いかけられているのは、何を見るかという選択だ。「無限なんていらない」*4という言葉は決してこの限界に対する諦めではないはずだ。むしろ有限をどう生きるかの話。あるいは、私が職業人として目指すところを考えれば、他人に「何を見させるか」という話にしてもいい。そういうことを考えていて、今月25歳になった。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

*1:詳細は原典を参照されたいが、農業革命、科学革命は一般的な知識で想起されるものと考えて問題ない

*2:うーん、たしか

*3:それでもこの無限の宇宙を観測し切ることはできないだろう、という話もある。ニュアンス。

*4:米澤穂信世界堂書店』より。すぐこれ持ち出しちゃうな