2024.03.21(Today is the time, too)

 

昼まで眠りこけてしまった。

人生が一変するかと思った特別なライブの翌日も、怠惰な一般人でいる。同居人は「昨日泣きすぎて目が開かないわ」と言いつつ朝早くに家を出て行った。えらいなあと心中で敬礼を送る。私も目は開かないです。

 

the chef cooks me のラストライブが一昨日、昨日に開催された。

 

少し経って、大きめの地震でまた目が覚める。同居人をはじめ、何人かの身を案じた。chefのライブの翌日の俺はいつも少し優しいのだ。いやそりゃあいつでも心配はするけど、その感情の肌触りってあるでしょう?

 

昼になれば、いやあさすがに……と身を起こす。寝ぼけ眼で見ていたiPhoneだが、まあ面倒な連絡はなさそうだ。昨日のライブを観るためにすっぽかした作業もバレていない! しめしめ、バレる前に片すかと布団を出る。

 

仕事の連絡を数本。

どーでもよい打ち合わせを一本。

少し大切な考え事を二、三本。

一昨日のセットリストを流しながら。『パスカル&エレクトス』のイントロは聴くたびに、聴くほどに全神経が沸き立つ。

 

夕方近くになるも、昨日の夜に打ち上げと称して鳥貴族で暴飲暴食をしたのでいまいち腹が減らない。とりあえず、セブンイレブンで買っておいたフリーズドライ酸辣湯スープに小さめの冷凍ご飯を入れてずるずると流し込んだ。

さっき聴いた『僕らの住む町』。ライブの再現としてプレイリストに入れるのなら、最初のコールがない『アワークッキングアワー』版の方が良かったか。いやでも、『HOMESTAR〜』のやつ好きなのだよなあ。ずるずる。

 

陽が落ちてきて、駅前のドトールコーヒーへ。ブレンドコーヒー・Mサイズ・300円。その裏にいるたくさんの人たち。一階奥から2番目の、背もたれが歪んで座りにくいソファ。イヤホンからは、何度目かの『Now's the time』

 

夜は渋谷に。三日連続でなんて、本当は行きたくない街。打ち合わせという名で酒を飲むなんてchefを聴き始めた学生時代にはよくわからなかった。

2016年5月のマウントレーニアホール。『Song of Sick』で、音楽に涙するということを知った。2018年3月のO-nest。『四季に歌えば』で未来についての呪いが解けた。

chefと渋谷についての思い出。まあ今日は行く店の場所が分かりにくくて、そんな感慨に浸る間もなく雑踏を掻き分けていたのだけどね。

 

生活は回り転じる。

俺は今日も音楽を聴く。

the chef cooks meも、それ以外も。

 

「聴かせてよ、"Now's the time"」の一節をステージに向けて叫ぶ瞬間が好きだった。彼らに願うのはただそれだけで、しかしもう伝える機会はない。

でもいいんだ、また勝手に聴くよ!

今日みたいに再生ボタンを俺が押して、ずっとそうしてきたんだ。そうしたら何度も聴かせてくれるんだろう?『Now's the time』

 

……ところで。『Now's the time』の歌詞って「We are all alone. We are not the same」って言っているのだね。

ずーーっと後半を「We are all the same」だと思っていた。「私たちは孤独である、という一点において同じなのだ」って話だと思って、涙しながらシンガロングしていたわ。

どっちにしろ良い歌詞だし、まあいいか。いやよくないか。ごめん! でも、これからもまた聴く楽しみができたよ。どうせ一生伴奏してくれるんだ。

 

ではまた!明日も明後日もその先も。

あなたたちが(そしてあなたの言葉の通りなら、僕たちが!)創って残してくれた音楽があるから、ただそれだけなんだ。嬉しいね、ありがとう。

 

https://youtu.be/pAqMOKOsB08?si=30Bm6Fv3LnNHi5J4

 

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リメンバー・ミー

映画『リメンバー・ミー』を見た感想。ネタバレある。

 

あらすじ:ミュージシャンを夢見るギターの天才少年ミゲル。だが、彼の一族は代々、音楽を禁じられていた。ある日、ミゲルは先祖たちが暮らす“死者の国”に迷い込んでしまった。日の出までに元の世界に戻らないと、ミゲルの体は消えてしまう!そんな彼に手を差し伸べたのは、陽気だけど孤独なガイコツ、ヘクター。やがて二人がたどり着く、ミゲルの一族の驚くべき“秘密”とは?すべての謎を解く鍵は、伝説の歌手が遺した名曲“リメンバー・ミー”に隠されていた…。

 

 

 

 

わたしの感想→違うだろ!!

 

けっこう本作は身の回りで褒める文脈で話題にされることが多くて、「死者の記憶」と「音楽」の話であることは知っていた。

で、見る前の私は

「その2つのテーマを扱って褒められてるなら、『こういう話』ってことだよね? 素晴らしい。最高。傑作だわ」と思っていたのだが……『そう』じゃねーのかよ!

 

この映画、世界観の見せ方は冴え渡っている。死後の世界。「誰かが覚えてくれたら消えない。忘れられたら、本当の意味で死ぬ」という価値観。『ONE PIECE』のDr.ヒルルクの死に際のセリフは幼い当時読んでもピンとこなかったが、これならわかる。何よりメキシコの死者の祭、そして日本のお盆を理解する最高の教材だろう。

 

しかしながら私がハマらなかったのは、先に挙げたテーマに加えて「家族」が入り込んでくる……というか最終的にはこれこそが最強の存在になってしまったことだった。

そりゃあ、死者のことは多くの場合、家族が一番覚えててくれるのかもしれない。死者の祭・お盆のフォーマットもそれを前提とするものだろう(一般に友達のために「おくりび」はしない)


でも、それだけじゃない。それだけでは決してない。血縁関係なんてない、人生で交わったのは一瞬かもしれない、もしかしたら顔も知らないかもしれない、そんな人をずっと『覚えて』いることはないか?

あるいは。ひとつひとつの異なる個体でしかない俺たちが生きていく中で何かをして(何でもいい。大きくても小さくても)、それさえ人の心に残っていれば俺たちは消えないのだとしたら、そんなの希望でしかないじゃないか。

そして、それを描く最高の題材が音楽じゃないのか。形もなければ、作曲者の顔なんて大抵浮かべて聴かない。しかしメロディというものは確かに記憶に強く刻まれる。そんな音楽をもって「死者が残したもの・記憶」の話をするなんて!と映画を観る前から感極まってしまっていた。

 

……のだけどなあ。そうはならなかった、というか、「音楽」よりも「家族」を描く作品だったかあと。なので基本的には上記に大きく反する、というよりは別角度で行ったのね、という話ではありつつ、「孤独」と音楽は自分の中では切って切り離せないものでもあるので、実は反してもいる。

※家族と孤独は相反する要素ということ。厳密には家族というテーマの使い方次第で、そこから孤独を描くことはあるのだけど、本作はそうではない。

 

先に好きなシーンを言うと、洞窟に落とされたミゲルとヘクターが、お互いが家族であることを知るところ。これまでの家族の無理解に対して、ようやく音楽を通じて理解し合える人に逢えた感動。「俺の家族は最悪だと思ってたけど、お前が家族でよかった」というセリフの、もうこの世界には自分と繋がるものは何もないのだ、という感覚に手を差し伸べられる感じはとても(自分にとっては)「音楽的」だ。

 

そして一番「……?(不服)」となったシーンは、ラスト、ママココに持ち帰った歌を聴かせるとこ。

いや、ここのママココ自体は良かった。少女時代の記憶に触れて、ママココが「かわいらしく」見える表情をするところはシナリオと映像表現の勝利だ。

そうなのだけど、これは「ママココと、ヘクターと、ミゲルの物語」であるべきだった。なんでここで「家族との和解」も成立をしてしまうのか?先に挙げた三者が分かち合った何かは確かにあるとして、家族とは何を分かち合ったのか?

それが分からないまま家族との大団円に進む、という展開が自分には受け入れがたかった。前提として、ミゲルの家族は徹頭徹尾ミゲルの思いに対して無理解な人間と描かれている。フィクションにおける「嫌な家族」の典型寄りの造形だと思うのだけど、そこに対するエクスキューズもないまま、「すべてうまくいった」かのような空気に物語が飲み込まれてしまう。家族という魔力のようなものに。この何か、個人と個人がそれぞれの人生において得た唯一無二の美しい繋がりが、家族という大きく漠然としたシステムに飲み込まれる感じが、ぞっとしたのだ。ミゲル。お前は、1年経ったらそんな奴らの前でギターを弾いてやれるのかよ?

 

まあ「家族」というものへの目線の話はこのくらいにしておく。こうして振り返ると「期待した、私の好きな類の音楽の話ではない」×「代わりに、私の嫌いな類の家族の話をしている」という最大級のフリ-オチを観せられた、ということでもあるな。

 

「音楽」の話は先に書いた通り。孤独でふぞろいな僕らが、人生という長い時間のほんの少しの間、その旋律を介して何かを分かち合うこと。それを通じて、音楽を作った遠くの誰かを「覚えて」いること。この美しさを描く素晴らしい題材だったことは間違いない。

 

ということで、自分が『リメンバー・ミー』がどうやら凄いらしいぞ、と聞いた時に確信を持って予想して勝手に感動していた「俺の『リメンバー・ミー』」のラストシーンはこちらです。

 

本編クライマックス。ヘクターが助かる理由は「Remember me」という曲を皆が覚えているから。ヘクターの遺影を取り戻すことは上手くいかず、もうダメか!と思ったがヘクターは死なない。→だってみんな「あなたの曲」を覚えてるんだから!→死者の祭のフィナーレで合唱。


そしてエピローグ。いつかのどこか、だれかの話。

夜。外は吹雪で、蝋燭を立てた部屋には少年が一人。両親は寝静まっているのか、はたまたいないのか、他に人の気配はない。

かじかむ手を揉みほぐして、少年がギターを爪弾いて歌う。

「Remember me〜」

カメラが引いていって、しんしんと雪が降り積もる夜の街に、一つ灯が灯った家が遠目に見える。少年の歌う曲と画面が揃ってフェードアウトしていく。Fin.

→Remember me(音源)に合わせてエンドロール

 

これやろ。ではまた

『出会って4光年で合体』

https://www.dmm.co.jp/dc/doujin/-/detail/=/cid=d_278002/

 

について。

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ということだな。

 

・魔法のかかった作品。初期の『かぐや様は告らせたい』が一番体感としては近い。美少女を描く「技法」は知らないが、「美少女とは何なのか」(ルビ振りたい)に限りなく接近した人間が、人生でその時だけ描ける世界。

・あるいは技法の無さによる何か不安定な揺らぎのようなものも、美少女に必要なのかもしれない。朝で額に張り付いた髪の毛、みたいなノイズが。

・インターネットの特異点の魔法、としては『オナマス』も想起したい所。テーマとして、ここでしか生まれない作品ではある。ただ上記2つと比べると、オナマスは「完成しすぎている」なとも。

 

・ひとつの達成は「美少女」の手の届かない美しさを保ったまま、セックスをさせることに成功した点ではないか。

・行為が始まっても「はわわわわ、かわいい〜」「こんな子と、こんなことしていいの?! ダメやろ!!」と思って読んでいた。

・つまり、性行為に至るというのはこう、人間としてお互いを受容しあうという意味で、何か対等さみたいなものを帯びるのではないかと。

・あるいはもっと品がないことを言えば、フィクションコンテンツ、例えばエロゲにおいては「このヒロインを獲得した」ことの象徴としての性行為のシーンになっていることも多々あるはず。

・だから性行為はそれまで高嶺にいたヒロインが、自分のところに降りてきてくれる、美少女をやめて人間になるようなものだとも思うのだけど。

・どこまで行っても彼女は「花」であったように自分は読んだ。

・…いやどうなんだろ? 花を使った演出は本作の特に前半に見られる個性なことはまちがいなく。それが宇宙空間=つまり、花が咲かないところに行くというのが、彼女もまた「俺と同じ人間」に降りてきた、ということでもあるのか?

・ただ少なくとも自分の中では、ずっと美少女やなと思っていた。この場合の美少女はかなり狭義の、手が届きようのない、人生で一瞬だけ出会う美しい何かを指しているということを今更ながらに書いておく。

 

・これと真逆のことをやったのが『かぐや様』の初夜会で、あれをもって決定的に四宮かぐやは人間として描かれるものになったと思う。美少女の座を降りた、あれもまた美しい選択だった。

 

・美少女であることは誰にも捕まらないことではないか、という気もする。常にどこかに消えていきそうな感覚を帯びた、理解しきれない存在。

・エロ漫画だからこそ、この美少女性を保ち切ることができたというのもあるかもしれない。心の距離を縮める描写、クライマックスを言葉を発さない性行為に委ねられるからこそ、彼女はどこか余白を残し続けている。

・意図的かはともかく、この物語が「美少女を、ただ描く」ことはエロ漫画というフォーマットだからこそ生みうる到達だったかもしれない。

 

ほか、ストーリーの組み立ての王道感や自然風景の描写が素晴らしいのはいうまでもなく。豪雨のシーンは圧巻。

「攻略法を使わないでゲームをクリアする」ことが何を示すのかは考える余地がありそう。

などなど。

この作品自体がずっと掴みきれない、なんだかごく稀にみる「超面白い映画みたいな夢」をそのまま見せられたようだなあ。

 

ではまた。

 

僕らのノンフィクション(祝辞)

2017年の夏も、こんな風にどうしようもなく夏だった。

 

冗談のような青い空と太陽が上空に鎮座し、ギラギラという音すら聴こえてきそうだ。一方で昼中を少しすぎた道路に人はまばらで、存外シン、としている。夏の盛りに自分が感じるのは、これから始まるひと夏の大冒険……ではなく「物語の終わり」である。それは単に部活動やサークル活動を終えて迎える季節というのもあるが、この静かさによるのだろう。

 

その頃の僕たちは大学の前に違法駐輪をした自転車を撤去されているような若者で、その日も夜深くまで酒を飲んでいた。

日付が回ってそれなりに時間が経ってから町を貫く大通りを歩いていると、どうやら彼が僕にどうしても見せたいアニメ映画があるというので(こんなことばかりなのだ!)、我が屋の205号室に転がりむ。吉浦康裕監督のその作品は、それはそれは素晴らしいもので、僕はまた自分の人生が変わったような、あの素晴らしい感覚に浸ることになる。

これは大変なことになったぞとはしゃぐ僕たちは、それぞれの自宅に帰って一睡を挟んだあと、万全の状態で翌朝また我が家で落ち合い、同じ監督の前作を観る。これは明らかに昨晩の一作の方が面白い。いやしかし、といつもながらの話をするが、まだ朝方なのだ!──それも、夏休みの!

 

何やらなんでもできるような気分になると、撤去された自転車のことを思い出した。いざ回収へ! 炎天下を歩くこと1時間強の長い道。何を話したのか、話していないのか、今となっては全く思い出せない。

撤去自転車の置き場にはちょっと驚くくらいの自転車が並んでいた。その時間に引き取りに来たのは僕たち二人と、もう一人たいへん端正な美少女で、「こんな女の子も、自転車を撤去されるのだ!」と僕たちは興奮していたりもした。

だらだらと歩いたはずの道も、自転車ではあっという間。軽快に駅前へと舞い戻る。これは景気の良い昼飯でも食わねばだろうと、ひいきのラーメン屋へ。その日の冷やし煮干しラーメンより美味いラーメンに、僕はまだありつけたことがない。腹が膨れた我々は「じゃ、また」と気の抜けた挨拶をして帰路についた。14時くらいだった。

 

他人の細やかな思い出話ほど、聞いてどうしようもないものはないのだけど。この日のことは、他人に語りたい特別なイベントでは全くない。ただし掃いて捨てるような日常というには、あまりに自分の記憶の中で輝きを放っている。

 

きっとこんな、特別に輝いたありふれた日常が、彼と彼女の二人にこれから何度も訪れるのだろう。そういう人たちなのだと、自分はよく知っているのだ!

どうかその尊い時間の一分一秒とも、何者かに脅かされませんように。(そして無数に訪れるその時間の、何掴みかには僕もいますように)

 

結婚おめでとう! やってやったな。

 

***

 

2023年7月23日。

 

どうしようもなく夏な結婚式場への道中で、そんなことを思っていた。もし突然祝辞を話すことになったらこれだ、と思っていたが……我に帰ると話さずに済んでよかった。他人の思い出話ほど、というにも程がある。

 

そんなことはさておき、

素晴らしい結婚式だった!!

 

私は結婚式一般を、たぶんあまり信用していない。お約束には嘘が混じる。だって、お約束を考えたのは君じゃないから。誰かの考えたフォーマットと君の感性にはズレがあって、無自覚でもそこに雑味が加わる。

だからこそ自分たちの結婚式は「自分たちが決めて、創る」ことが本質だと考えていた。面白おかしみ、というのは単に結果で、重要なのはフォーマットを離れて自分たちがあの場で見せたい自分たちを真面目に考えたらああなった、ということになる。

(自分の式のことを特に書いていなかったけど)

 

さて彼らの式はとってもちゃんと、結婚式らしい結婚式だった。なのになぜこんなに私が感動しているのかは、きっと同席した自分の隣人の言葉が正しくて。「『結婚式』というものが、この二人のために生み出されたかのよう」だったから、と言うしかない。

 

ファーストバイトなんてことをやるのは、くだらないと笑われるくらいの、とびきりの幸福を見せるためなのかもしれない。

どこの誰かも知らない神に何かを祈るのは、あの日僕らが二人の幸福を願う気持ちはとても強くて、ちょっと他人とか超常の力も介するのも悪くないくらいだからなのかもしれない。

 

考えてみると特段、友達の幸せを願うということを意識して日々を過ごすことはない。が、あの日の自分は「ああどうか、本当に、幸せでいてくれ!」という心持ちでいっぱいで。

きっとずっと心中では思っていたから、例えば別に俺の関係ない彼の仕事の話に喜べたりするのだけど。ああそうなのだなあ、とあの日に初めて分からせてもらった気がする。

幸福を心から願うために、結婚式があるんだな。そして、そんな結婚式というものに、少なくとも俺にとっては最も相応しい二人だったんだな。

なんというかそういう、何か一つ答えみたいなものを見つけて帰った日だったのでした。

 

大事なことを書いたようで、特に書きたかったことは書けていない気がする。あるいは答えを急いで、ちょっとチープなことを書いてしまった気もする。新しい人生の宿題が出てきてしまって困った! ひとまず筆を置くことにする。

 

形ないもの、例えば愛もそうなのかもな。それらについて考える僕らの日々は続く。きっと、思っていたより幸福に。

 

ではまた。

 

https://youtu.be/bbr60I0u2Ng

1000日のこと

2023年3月13日。本日(時刻上は昨日)から私の住む場所でマスクの着用が任意になるらしい。

 

世の中がおかしくなって、およそ3年が経った。

 

新型コロナウィルス、COVID-19という感染症が世界的に流行をした。このウィルスは飛沫感染力が高いとされ、日々の生活でマスクを付けることが世間的な常識となった。

 

自分の生き方においても当初は無視することのできない影響があった。エンターテイメントと飲食業界が大きな打撃を受けたし、当初は家から出ずに日々を楽しむ、という大喜利に乗っかってみたりした。それによって却って、今にしてみれば心をすり減らしもしていた。

 

長く長く沈んだ時間が続いていたような気がしているが、それは2020年の3月から約半年くらいのことだったな、と色々なものを見返して思う。それが短い、とは決して言わない。自分の人生にそれまでなかったほどの暗い180日があって、これをもって自分の人生が幕を閉じる、ということも現実的に考えていた。

 

ただ幸い、2020年の夏に北海道に行った時。厳密に言えばその前日の、浅い眠りしかできなかった朝方(だったはずだ)に、その時届きたてだった山中さわおの『ロックンロールはいらない』を聴いて、翌日の準備を始めた時に。自分の時計を動かし始めることが出来た。自由を手に生きていくイメージが戻ってきた。

 

そこからの日々の中では、あまり感染症で心の底から沈むことはなかったかもしれない。むしろそんな世界の中で、同じように考えたり生きたりしている人たちがいることを確かめることができた。それは嬉しい、特別なことだったんじゃないかな。

 

ということで、本日からマスクの着用が「任意」になるらしい。ただ本来、この自由は人が決めたものではないはずで、というか、自由というものを他人が決められるものではないはずで。

世の中の人が自由をこれだけ簡単に奪われたり手放したりする景色を見たことも、それでも、その中で何か特別なものを分かち合った人がいたことも、覚えておこうと思うのです。

 

 

3年間が経った。

音楽ライブを53本観て、

旅に16回出て、

靴を3足買い、

新しい仕事を立ち上げ、やめて、また初めて、

同棲を始め、結婚をし、

数えきれない言葉を目の前の人たちと交わした。

 

ただそれだけだったのだ。

とあるぼくらの、健やかな1000日。

 

ではまた。

 

日々のこと(3/1)

これが修羅場か、という仕事をしている。マジでやばすぎる

が、そんなことは記録しなくても身体と精神に拒否反応が刻み込まれるはずなので(今度はもっと上手くやってみせる)、ここでは語らない。

 

***

おそらく気のせいでは無い程度に、ここ最近で自分の人生に何かしらの影響を及ぼしたアーティストが亡くなったので、そのことを記しておく。

自分目線の、自分にとってのドキュメンタリーなのでいわゆる追悼のような言葉にはならないだろう。という、虚空に向けた注意書きを先に。

 

***

ドラマーの恒岡章さん。

元の伝説的なバンドより、自分にとっては後期チャットモンチーであったり、橋本絵莉子のソロバンドの印象だ。

チャットモンチー時代はエネルギッシュなドラミングで原曲以上に楽曲のパワーを引き出す人、というイメージだった。しかしソロバンドのプレイングを聴くと、クールでクレバーな、あるいはナチュラルなドラムが素晴らしい。

「日記を燃やして」は音楽的にとても好きな名盤。それがこういった形で特別な意味を持つことになったか、と。

何度かソロバンドでのMCで氏が話すところも観た。良く言うとまあ本当に善人なんだろうな、そうでない言い方をすれば不器用で、話つまんないんだろうな〜笑、と思っていた。俺のドキュメンタリーのために、こういうことも書き記しておく。そのことが故人への敬意を欠くとは思わなくて、自分にとっての故人とのあの時をできるかぎり切り取りたいだけなのだ。

 

***

アートディレクターの信藤三雄さん。

 

『ティンパンアレイ』

バンドデシネ

『肉版/骨版』

『優しい歌』

『Q』

 

きっと探せばもっとあるのだろう。

自分が音楽というものに出会ってから、知らず知らずのうちにそのアートワークで美意識を形成されてきた作品たち。『優しい歌』の生命力よ。

改めて見返すと、『海のYeah!!』も何で素晴らしいアートワークなんだ。サザンオールスターズというバンドのエロティックさ、サイケデリックさ、クールさ、全てがここにある。

 

どうか安らかに。そして心からの敬意と感謝を。

 

 

***

sumikaのギタリスト、黒田隼之介さん

黒田さんのことを自分はよく知らない。

sumikaというバンドに、特別な感情は無い。

 

ただ、30半ばのロックバンドのメンバーが命を絶やすということの意味は分かっているつもりではある。

 

ああもう、とだけ。

 

***

2〜3年前に自分の中に「死ぬ」という選択肢が、ある時普通に入り込んできた。

その感覚は今も特に変わってはいなくて、選択肢としては消えていない。呪術廻戦のセリフじゃないが、一度入り込んだこれとは付き合っていくしかないんだろう。それでもって、それもまた自分の自由だと思っているからな。

 

ああでもだけど。これもたまたま、最近自分のごくごく近しい人が何人か死に関して言及することが続いた。(いくぶんか冗談混じりで)

本当に身勝手なのだけど、頼むからやめてくれと素直に思う。怒りのような祈りのようなエゴ。自分の自由なのだ、とか言ったくせに。いや、まあそんなもので、そんな風に自分と他人は関わっているのだと思えれば。

 

***

肉のハナマサで買った筋子の醤油漬けで白米をモクッと食べた。もう寝よう。

 

ではまた。と心から。

New year's eve (2022→23)

あと数時間ほどで今年が終わる。

それでもって、あと20分ほどで私の好きなミュージシャンたちがステージに現れて、今夜も特別な夜になる。去年もそんなことを書いたんだった。

 

ライブハウスへ向かう道中のバス。窓がこれでもかと開き切っていて寒かった……。何の意味があるのか、それによって起きる別のリスクとの天秤はどうか、もっと考えた方がうにゃむにゃ。この1年間は自分のスタンスが定まっていたこともあり、絶望的な悲しい思いをしなかったとはいえ、もっと「まとも」な世界にさっさと戻るだろうという思いは変わらない。

 

昨日は友達が初めてのギターを買うと言うので池袋へ。あれこれと口を出したりしてなかなかに良い買い物ができた。たのしい年の瀬。

そういえば、今年に人の新居選びを一緒にしたのも愉快だった。大きな決め事を一蓮托生でできる他人がいる、というのは幸せなことだと思う。人付き合いの義務みたいなものの対極で、だってそうしたいだろう、という自由が形になるような気がするから、かもしれない。

 

年の瀬にはその年に印象的だった曲をまとめてプレイリストにしている。『かぐや様は告らせたい』の完結から『センチメンタルクライシス』、ZIONの活動開始から『hurricane』、そして今年営業を終えた新木場スタジオコーストへの愛と色々の未来へGRIM SPANCKYの『形ないもの』など。このあたりを流している時、ぽろっと自然に「今年、けっこう楽しかったな」と思い、まあ"お幸せ"な人間だなあと我ながら思った。同居人も笑ってくれていたので良かった。

 

あと今年は結婚をした!

それでは、また来年。